補正環つき対物レンズの効用

世の中にはLCD基板検査用対物レンズという商品がある。同倍率の対物レンズにくらべて2倍くらい値のはるレンズである。なんで、そんなものがあるかと言えば、NAの大きな対物レンズでは、レンズと試料の間に存在するカバーガラスなどによって生じる収差が問題になるからである。このため、ガラス越しに観察することが分かっている場合は、そこで発生する収差を織り込んで対物レンズの設計が行われる。とはいえ、セルのガラスの厚み毎に対物レンズを作っていたのでは、数限りなくなってしまうので、ガラス厚に対応する収差を、ある範囲で連続的に変えられるように設計したものが商品化されている。液晶観察用の対物レンズでは1mmをはさんだ適当な範囲で補正可能に設計されていることが多い(昔の設計ほど補正範囲が厚めに偏っている傾向がある気がする。液晶パネルのガラス厚は年とともに薄くなる傾向があるのだろう)。

このLCD基板観察用対物レンズなのだが、周囲にいる液晶研究者に聞いても使っているという話を聞いたことがなかった。唯一、共焦点顕微鏡で使っていた人がいたのだけれど、様子を聞くと効果が実感できない口ぶりだった。研究室にも1本だけ補正環のついたLCD基板用の対物レンズがあるのだけれど、日常的な観察では実感できるような差はなく、存在意義については、個人的にはかなり疑問を感じていた。

この疑問が緩和され、ある場面では有用な道具であることを認識したのは、知り合いが持ち込んできた反射型液晶パネルを観察してみたときであった。液晶セルの背面側にある凹凸が、補正環の調整により非常にシャープに見えるようになることが分かったのだ。この経験を通して補正環つき対物レンズが必要とされる場合があることを心から納得はした。しかし、通常の液晶の組織観察に関しては、本当に価値があるのかは謎のままであった。

補正環つきの対物レンズについては、顕微鏡メーカーの方にも必然性を伺ったことがある。あるメーカーの方は通常の液晶の組織観察では差が認められにくいことに同意してくださった。また、別のメーカーの方は検査用の装置の納入の時にはクレームがつくことを恐れて、LCD観察用の対物レンズをつけて出荷するが、現場では補正環の調整はきちんとはされてはいないのではないかと話されていた。要するに、原理的には必要なはずだけど、現実的には必要とされる場面は必ずしも多くはないというのが実際のところのようである。

ある日、ネットオークションを見ていたら、100倍の対物レンズが出ていた。最初からこのレンズに目をつけていたわけではなく、同じ出品者の40倍超長作動距離対物レンズに気がついて、同じような品を出していないかとあたってみたら上のレンズに行き着いたのであった。写真を見ると、210/0.9-1.5という表記がある。これは鏡筒長210mm系で、カバーガラス厚さ0.9-1.5mm指定という意味であり、名称はMPlanPCと液晶に関連する文字はないのだけれど、どう考えてもスライドガラスで挟んだ液晶を(残念ながら作動距離を考えると保温炉の中ではピントが合わないので室温でだけれど)観察するための対物レンズとしか思えない品であった。ネットオークションでの購入は研究費から出費できるわけはないので、「趣味の科学研究」の一環として入札を行った。幸い思ったほど高価にならずに落札できた(同時に落札しようとした40倍の超長作動距離レンズは落札しそこねてしまった。個人的には100倍の方が40倍より高値になると思っていたのだけれど逆だった。)。

届いた対物レンズを顕微鏡に装着してスライドガラスで挟んだ液晶を観察してみた。対比のための写真は210/0(カバーガラス無使用)の超長作動距離(SLWD)100倍と40倍の長作動距離(ELDW)レンズである。撮影は、それぞれの対物レンズでピント調整をして最良と思われるピント位置で撮影している。意図的にLDW系のピントを甘くしたことはない。コンデンサの開口数による影響も見るために、コンデンサのNAを0.2、0.4、0.6を変えて撮影している。なお、100倍の対物の場合には2.5倍のトランスファーレンズを、40倍の対物では(5倍のつもりだったのだけれど、倍率が合っていないところを見ると多分)4倍のトランスファーレンズを組み合わせて、画面倍率が近くなるようにしている。100倍の画像に移っている丸い点はトランスファーレンズの汚れに起因するのだが、汚れを落とせず、残ってしまっている。

写真1 NA 0.2 上からPC、SLWD100、ELDW40

続いて、コンデンサーレンズのNAを0.4に上げた写真である。

写真2 NA 0.4 PC、SLWD、ELDW40

最後はコンデンサのNAを0.6とした写真である。

写真3 NA 0.6 PC、SLWD、ELDW40

補正環付きレンズと通常のレンズの違いは、明白で、特に照明のNAを大きくした時に、補正無しだとコントラストが極めて低下するのに対して、補正環があると、コントラストを保っており、低NA照明の場合にくらべて違いがより顕著になる。いずれの写真も照明のNAが高い方がコントラストが低下している。その一方で、分解能は高くなっているはずなのだけれど上の写真では必ずしもそうも見えていない気がする…。

この写真だけでは、横のスケールが分からないので、対物ミクロメータの写真をつぎに示す。

写真4、対物ミクロメータ PC、SLWD、ELDW40

明るい線の感覚が10ミクロンである。ご覧頂くとわかるように、対物ミクロメータについては、SLWD100の方が100PCよりよい画像となっている。SLWDは決して画像がぼけるレンズではなく、指定どおりに使えば、きちんとした画像を与えてくれるレンズなのである。100PCについては、上にスライドガラスをのせている(ないともっと滲む)のだけれど、補正が完全には行われていないことがこの写真から明らかである。これは、厚さを合わせそこなっているのか、設計基準となったガラス板の屈折率がスライドガラスとあっていないのかは不明である。対物ミクロメータの間隔より、大体33ピクセルが1ミクロン程度のようである。それをもとに、上の写真の分解能を見当すると、100PCではサブミクロンは出ていると思う。一方、SLWDはミクロン程度なのだけれど、コントラストの低下はもと画像に依存するので、もともとのコントラストが低い場合には、ミクロン程度のものも見えなくなっているように思う。

さて、では実際の液晶観察ではどの程度の倍率でものをみているのかと言うと、

この程度の倍率である。この写真の試料は上と同じで、室温でのBBBAのSmG相である。

この写真は10倍の対物レンズを用いて撮影された画像を1/4に縮小しているので、上の100倍のレンズに比べると1/40の倍率でしかない。液晶の組織観察は多くの場合はこの程度の倍率で十分である。いや、この程度の倍率の方が全体の様子を見られるので都合がよいのである。この写真で1ミクロのはおよそ1ピクセルに相当する。こうしてみると、1ミクロンは通常の組織観察では見る必要のない長さなのである。そして、これが液晶観察において、補正環付きの対物レンズがほとんど使われていない理由であろう。

ところで、上の写真を比べると照明のNAが大きくなるほどコントラストが弱くなると共に、色調が淡くなっている。これは、垂直入射と斜め入射で複屈折に差があるために、干渉色が平均されてしまうためである。このような効果が生じるであることは昔から気になっていたのだけれど、40倍の対物レンズで1軸平行配向の試料で確認したときは、色調が淡くなるものの、ニュートラルに近くなるところまで色が無くなってしまうことが無かったために、きちんと検討していなかった。これについては、項目を改めて検討したい。

※補正環つきの対物レンズにこだわりを持っているのは、ひょっとしたら、これまでは見過ごされていた微細な組織の観察の切り札となるのではないかとの思いがあつためである。もう少し具体的にいうと、SmC相に出現するジグザグ欠陥のコア構造である。強誘電性液晶がもてはやされた当時、ジグザグ欠陥のモデルは提出されているけれども、いずれのモデルもコアの構造についてはきちんと説明していない。もっともらしい層の折曲がりの絵を描いているけれども、層の食い違いを考えると絶対に存在すべき巨大ラセン転位が抜け落ちているのである。個人的には当時から、スメクチック液晶におけるラセン転位はバーガーズベクトルが大きくなるとラセンフォーカルコニックとでも言うべき構造に緩和すると考えている。その、ラセンフォーカルコニックが、高分解能の対物レンズがあったら見えてこないかなぁと思っていたのである。近日挑戦予定(^_^)。

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