ReinitzerがLehmannにコレステロール誘導体に関する最初の手紙を記してから112年後の同じ日に
液晶研究の歴史を紐解くと液晶は1888年にオーストリアの植物学者Friedrich Reinitzerによってコレステロールの誘導体において発見されたことになっている。もっとも、液晶という言葉はReinitzerの発明ではなく、Reinitzerからの依頼によりその物理的な研究をおこなったドイツの物理学者0. Lehmannによることになっている。
この話を知って以来不思議だったのは、なんで植物学者がコレステロール誘導体の研究などをしたかであった。何しろ、コレステロールは通常は植物ではなく動物由来の物質である。しかも、その誘導体を加熱した時の挙動なんて、とても植物学と関連があるとは思えない。
ところで、コレステリック液晶と言えば、世間的には(あるいは日本の一部では)烏賊と密接な関連がある物質と思われている。確かに、烏賊の肝由来のコレステロールからコレステリック液晶を作ってた会社もあったけれど、市販のコレステロール誘導体の主原料は烏賊由来ではないような気がしている。きちんとした根拠や統計資料はないのだけれど、試薬屋さんのカタログを見るとCholesteryl Chloride from Beef Fatなどという記載が見つかる一方で、烏賊由来のコレステロール化合物は記載されていない。事情は1888年の欧羅巴でも似たようなものであったろうと思う。何しろ、烏賊を食用にする習性のほとんどない地域なのである。わざわざ食べもしない烏賊をコレステロールを取るためだけに採取するとは思えない。ではReinitzerが使った材料は何だったのであろうか。
Reinitzerのコレステロール研究の理由と、原材料は彼の論文[1]を読めば理解できるだろうとは思っていた。とは言え、それは、実行が容易ではないことがらでもある。なにしろ、1888年のあまりメジャーでない論文などは、そのへんの図書館にはころがっていない。また、論文を拾えたとしてもドイツ語の壁が待っている。ちなみに、この論文はうちの図書館にはない。0. Lehmannの論文[2]が掲載されている雑誌は図書館にあるのだけれど、残念ながら該当する論文が載っている号は欠番になっている。
図書館に現物がないのは承知していたけれど、掲載されている論文誌が、妙な気を起こして、雑誌を遡って電子化していないかなぁと何の気なしに検索をかけてみたら、驚くべきことに本当に電子化されていて、論文のpdfが入手出来てしまった。これで、残るはドイツ語の壁だけになったのである。ドイツ語は、大昔に少しかじったことがあるけれど、sein動詞の3基本形すら忘れ果てていて、とてもじゃないけれど読める気がしない。がその後、実に、この論文の英訳版[3]が世の中に存在していることが分かり、そちらも入手できた。というわけで、以下は英語版を元に、液晶を見付けるに至った経緯を紹介することにしよう(下注)。
Reinitzerのそもそもの研究対象はニンジンの根に含まれる植物性ステロイドであったようである。それが何故コレステロールを研究対象としたかを理解するためには、まず、1888年ごろの科学技術の状況を理解しておく必要があるような気がする。そこで、関連しそうな事柄に関する簡単な年表をまとめることにしよう。
| 年号 | 出来事 |
| 1780 | 面角測定ゴニオの発明 |
| 1800(?1799) | ボルタの電池 |
| 1803 | ドルトン原子量 |
| 1821 | 回折格子(フラウンフォーファー) |
| 1828 | 尿素の合成 |
| 1830 | 燃焼法元素分析 |
| 1834 | 偏光顕微鏡 |
| 18?? | ミエリンの複屈折性 |
| 1857 | 水銀真空ポンプ |
| 1859 | 陰極線の発見 |
| 1859 | 種の起源 |
| 1865 | ケクレのベンゼンの構造 |
| 1866 | ダイナマイトの発明 |
| 1871 | 写真乾板 |
| 1873 | アッベの正弦条件 |
| 1876 | ギブス・自由エネルギー |
| 1879 | 白熱電球 |
| 1888 | 電波(ヘルツ) | 1895 | X線の発見 |
| 1912 | X線回折 |
こうしてみると、1888年頃の科学者はガス灯の下で、ほぼ非電気的な測定技術により研究を進めていた。分子に関しては、分析により組成式を出すことは可能であったが、コレステロールの様に、必ずしも小さくない分子では、組成式の曖昧さが残っていた。精製の中心的な手法は、結晶化であり、ある物質が結晶化しにくい場合には、既知の物質との化合物を作り結晶化させる手法が行われていたようである。こうした中で、Reinitzerが入手性の悪い植物性ステロイドを対象とした実験の小手調べとして、類似性が高いと思われ、より容易に入手できるコレステロールの研究を行おうとしたのは当然の流れであったのかもしれない。
なお、上の表で、一点注意しておきたいのは、1800年代中頃にはミエリンの複屈折性が認識されていたことである[4]。これは、現在の言葉で言えば、ライオトロピックスメクチック液晶の発見に相当する現象であるけれども、それは、現在の視点からの評価であり、当時としては、液晶という認識は存在していなかった。
Reinitzerの論文では、まずコレステロールの組成式に関する議論がなされている。論文執筆当時に標準的と思われていたコレステロールの組成式はC26H44Oである。ただし、C25H42O説もあった。後者の説は気体の密度という、今日では思いもよらないような方法から提案されている。もちろん、コレステロールの気化は不可能なので、その加熱分解物の密度を測定し、組成がC5H8相当と判断し、均一に分解しているという仮定を用いてC25を導き出すという、かなりアクロバットな議論が行われている。
コレステロールの組成の不一致に興味をもったReinitzerはコレステロールの組成を定める実験に着手し、最初は、安息香酸コレステロールを用いたのだけれど溶解性などの点から断念し、酢酸コレステロールの臭化物を用いて、元素分析を行っている。酢酸コレステロールの臭化物を用いているのは、これがコレステロールに比較してアルコールへの溶解度が悪いために、精製が容易であるといった理由があったようである。測定の結果得られたコレステロールの組成式はC27H46Oで、この結果は、従来の組成式と異なったものであった。この妥当性を検証するために、彼は、あらたな複数のコレステロール誘導体を合成し、その物性評価を行ったのがこの論文である。
組成にかかわる議論の最後で、Reinitzerは試料の純度・再現性の重要性を主張している。その中で、彼はコレステロールの供給源は胆石か羊由来の油脂(lanolin)であるが、自分の用いた物は胆石由来であると記している。この材料はH. Trommsdorffの工場製であるが、何の胆石であるのかについては記載はない。逆に言うと、1888年当時は胆石と記すだけで、何の胆石かは理解される状況にあったのかもしれない。と言うわけで、最初の液晶の材料が何であったかには、半分ほどの解答が得られたのだけれど、胆石を作った動物を特定することは出来なかった。まあ、烏賊の胆石という話は聞いたことがないので、烏賊でないことだけは確認できたとは思うのだけれども。
さて、Reinitzerが作製した誘導体の中で、酢酸コレステロールと安息香酸コレステロールの2種類が液晶相を取る物質である。続いて、これらの物質に関する彼の観察結果を紹介する。
まず、酢酸コレステロールである。Reinitzerはこの物質の結晶学的なパラメータ(面角など)を報告した後で熔解状態からの冷却時に見られる着色現象を記述している。現在では、結晶学的なパラメータはもっぱらX線回折により求められるわけだけれども、この時代にはX線回折どころか、X線そのものも発見されていない。このため、結晶学的なパラメータは結晶の外観より定められているようである。なお結晶学的な仕事はReinitzer本人ではなくZepharovichによる。この点からも、きれいな結晶を作り出す技術は重要だったのではないかと思う。彼によると色の変化は、先ず鮮やかなエメラルドグリーンが表れ、続いて、青緑、深い青を経て黄緑、黄色、橙から赤を経て最終的には鮮やかな赤となる。そして、もっとも温度の低いところ(そこでは、色はすでに淡くなっている)から球晶が発生して全面に拡がっていく。この現象は、融点測定用の毛細管でも観察できるが、スライドガラスとカバーガラスに挟んだ状態で反射で見るともっともよく観察出来る。透過の観察では補色が表れるが、観察が困難なくらい淡い色となる。論文によれば、このような色調変化はReinitzer以前にRaymannにより報告されているのだけれども、Raymannはこの現象が酢酸コレステロールの固化後に起こっていると記しているのに対して、Reinitzerは固化前の現象であると主張している。
コレステロール誘導体の着色現象は、これ以前にもいろいろな誘導体で観察されており、Reinitzerの論文にもPlanar(cholesteryl chloride)、 Raymann (cholesteryl chloride)、 Lobisch ( cholesterylamine、cholesteryl chloride)、Latschinoff(silver salt of cholestenic acid) などが紹介されている。しかし、これらの先駆者達は、着色現象の機構を解明しようとはしていなかった。その一つの理由は、材料が生体由来であり、本当に単一物質であるのか、不純物がないのかなどに確信が持てる状況になかったこともあるようである。実際、コレステロール化合物における液晶状態の発見後も、同様の批判はあり、それが払拭されるのは、完全に合成された純物質でも液晶相の存在が確認されてからのようである。Reinitzerは、おそらくは、試料の純度に自信を持っていたこともあり、この着色現象を本質的なことであると考え、その理由として物理的な異性状態の存在を疑った。そして、その分野の専門家として知られていたLehmannに酢酸コレステロールと安息香酸コレステロールを送って検討を依頼した。ReinitzerとLehmannの往復書簡は残されているらしく、1888年3月14日付けのReinitzerの手紙から始まり同年4月末までで4往復のやり取りがされている。[4]
Lehmannの論文は1889年に発表されるのだが、1888年のReinitzerの論文の中にはLehmannの研究の結果として酢酸コレステロールには3種類の結晶があり、1番目、2番目の結晶を加熱すると溶解前に3番目の結晶のマルチドメイン的な状態になるとされている。この3番目の結晶が、コレステリック液晶に相当するもののようである。
Lehmannの観察結果に続いてReinitzerは着色現象を引き起こしているものが、球晶の凝集体のようにも見えるが、詳細に観察すると液体的な何者かであることを指摘している。さらに、直線偏光に対する強い旋光性の存在も指摘している。また、等方相転移点以上に加熱して一部分解した酢酸コレステロールを急冷すると常温で、特性反射による色調を固定できることも報告している。
続いて、安息香酸コレステロールに関する記述を紹介しよう。この物質はBerthelotやSchulzeによってすでに合成されており、Schulzeは融点として150~151℃を報告している。しかし、Reinitzerは、144.5℃で濁った液体状態に融解し、さらに昇温すると178.5℃で透明な液体に変化すると記している。Reinitzerは明確に2つの融点を認識しており、その間に発生する着色現象に理由を物理的な多形と考えた旨が安息香酸コレステロールに関しても記載されている。
安息香酸コレステロールの着色現象について、Reinitzerは降温過程で、深い青紫がいったん表れて消失し、その後で、酢酸コレステロールで見られたのと同様の色調の展開が生じると記している。最初に出現する深い青紫は現在では、コレステリック相ではなく、コレステリックブルー相によるものであることが知られているが、それが認識されたのは、はるかに後の話である。なおReinitzerは、彼のそもそもの研究対象である植物性ステロイド(彼はそれをハイドロカロテンと呼んでいるが、現在の命名法でなんという物質になるのかは、私には分からない)の安息香酸エステルでも着色現象が見られることを記している。
以上、ざっくりとReinitzerの論文の液晶に関連する部分を紹介したけれど、この論文には、実際にはそれぞれの物質の結晶型に関する記述などもあり、論文のタイトルが示しているように、コレステロールおよびその誘導体についての、知見を報告したものである。それまでも、Reinitzerと同じ物質を扱った複数の研究者がいたわけだけれども、その中の何人かは着色現象を観察しながらも、それを突き詰めて理解する必要のある事柄とは認識しなかったのか、そのために自分以外の人を巻き込むというアクションを起こさなかった。それに対してReinitzerは物理多形という着想から、その道のプロを巻き込んだわけである。
液晶の発見者が誰かについては、その後ReinitzerとLehmannの間で争いがあったらしい。この状態が光学的異方性を有する液体であることを確認し、液晶に相当する言葉を作り出したのはLehmannであるけれども、Reinitzerが2重融点を認識せずに、Lehmannを巻き込むことがなかったら、Lehmannが液晶をこの時期に発見することはなかったであろう。そういう意味では液晶の発見者をReinitzerとLehmannの2人とするのは、なかなかにバランスの良い見方であるように思う。、
注
本当は、たまたま実験をしに来ていたドイツ人に論文を渡して、原料について記載されているかを教えて貰った。その結果、胆石というのは分かったのだけれど、それ以外のことは(流石に、あまり実験のじゃまはできないので)あまり分からず、釈然としない気分が残っていた。その時点で英語版が目出度く見つかった次第である。
参考文献
[1] F. Reintzer, Monatshefte 9(1888)421.
{2} O. Lehmann, Z. Phys. Chem., 4(1889)462.
[3} F. Reintzer, Liquid Crystals 5(1989)7.
[4} H. Kelker and P. M. Knoll, Liquid Crystals, 5(1989)19.
2010年3月14日初版