偏光顕微鏡で観察する液晶の世界

東京工業大学工学部有機材料工学科

                                   石川 謙

顕微鏡小史

 光学顕微鏡は物体を拡大して観察するための機器である。1組のレンズのみで拡大を行なうものを「単式顕微鏡」、対物レンズと接眼レンズで2段階の拡大を行なうものを「複式顕微鏡」という。現在では顕微鏡と言えば複式顕微鏡のことであり、単式顕微鏡は「解剖顕微鏡」などの一部の用途に残されているにすぎない。
 人類がいつの時代に凸レンズの拡大作用に気がついたのかは定かではない。とはいえ、13世紀後半の眼鏡の発明と前後して凸レンズによる拡大鏡も世間に知られるようになったと思われる。その凸レンズが虫眼鏡のレベルから顕微鏡と呼べるものになったのは16世紀の終りから17世紀の初めごろである。この時代に構造が簡単な単式顕微鏡だけでなく、複式顕微鏡も既に出現している。しかし、この時代の複式顕微鏡は結像理論や加工成形技術が未成熟であったため、簡単に経験的に最適化可能な単式顕微鏡よりも性能は低いものであった。
 顕微鏡を用いた観察記録として1625年にフランセスコ・ステルーティにより「ミツバチの図」という書籍が発行されている。そして1665年にはロバート・フックにより「ミクログラフィア」が出版された。この本は名称から顕微鏡図譜という印象がつよいが、顕微鏡による図譜のみでなくフックによる様々な科学的論考も含まれている。現在のイメージでいうなら、ビジュアルな科学雑誌を高尚にしたものである。フックは最大倍率が50倍程度の複式顕微鏡を用いてコルクや蚤といった日常的な物体を観察した。フックの本はその精緻な図版故に当時の物好きな上層階級の間に大きな影響を与えた。
 フックの本に恐らくは影響を受けた一人にオランダのレーウェンフックがいる。彼は商人の出であったが、科学的なことにも興味を持ち、光学性能が優れた単式顕微鏡を用いて多く非日常的な物を観察した。彼は微生物を発見し、細菌を観察し、精子を発見し、木材の組織についても実験を行なっている。彼は一方で生涯に 500を超える単式顕微鏡を作製したと言われている。現存するのはその中の9つほどであるが、その中で最大の倍率を示すものは 266倍で、1.4 μmの分解能を誇っている。彼の観察及び発見は多岐に及び、その成果は英国王立学会へレターで報告された。この記録は100 年以上も科学的な価値を保っており、19世紀の生物学者の間でも新発見を主張する前にレーウェンフックのレターを確認しておく必要があると言われていた。
 単式顕微鏡はレーウェンフックの後も発達を続け、多様な機種を産み出した。分類学で有名なカール・リンネウスやブラウン運動を詳細に報告したロバート・ブラウンも単式顕微鏡の使い手である。単式顕微鏡には 500倍近い倍率のものまで存在していた。
 一方複式顕微鏡は18世紀の色消しレンズの発明などを通して徐々に進歩していった。19世紀には、職業として顕微鏡を作る業者がヨーロッパ諸国には存在していた。1846年には後に顕微鏡の歴史に大きな足跡を残すカール・ツァイスが製作所を起こしている。しかし、この時代にはレンズの設計原理は確立しておらず、職人が勘と経験で作製した対物レンズの中で優れた性能をたまたま示した品物のコピーを作って製品としていた。当時のツァイスの複式顕微鏡は高性能と認められていたが、それでも性能的にレーウェンフックの単式顕微鏡に及んでいなかった。
 この状況を打ち破ったのがイエナ大学の講師であったアッベである。彼はツァイスからの依頼を受けて1866年からツァイスの光学製作所の指導を始めた。アッベが最初に行なったのは作業の分割システムの導入であった。それまでの顕微鏡の対物レンズの最終仕上げは、ばらつきのあるレンズで組み上がった対物レンズを職工長が経験に基づいて調整して製品としていた。アッベは各々のレンズの寸法や許容値を設定し、職工長による調整なしに対物レンズを組み上げられるようにした。このシステムの完成により光学的な原理に基づいて設計したレンズをきちんと製作する体制が整った。ところが、アッベが最初に設計したレンズは解像力が低く経験的に製作されたレンズに及ばない品であった。この失敗からアッベは顕微鏡の結像理論を発展させ、さらに収差理論も開拓して、その成果をもとに新しい対物レンズを設計した。このレンズはきわめて良好な性能を示した。さらに1870年代の後半にはツァイスの製品として油浸レンズが出現し、ここにようやく分解能において単式顕微鏡を確実に超える複式顕微鏡が確立した。この顕微鏡は、早速コッホによる結核菌の発見に威力を発揮した。
 アッベは収差を補正したレンズを作製するのには種々の光学ガラスが必要であることを認識していた。そこで、化学者のショットが新種ガラスを開発するのに助力した。また、必要とする光学的性能のガラスが得られない場合には天然の蛍石を用いるなど、材料の選択にも努力を払っている。 アッベの努力によりカール・ツァイス社は顕微鏡・光学機器メーカーとして世界的な地位を築きあげた。その後も、いちはやくケラー照明を実用化するなど先進的な技術を保ち続けた。ツァイス社は第二次世界大戦後の東西ドイツ分割により大きなダメージを受けたものの現在も1流の光学機器メーカーとして、その地位を保っている。
 日本では明治以降の工業社会が発展する過程で、多くの顕微鏡メーカーが発生した。例えば、千代田・エリザ・金栄・高千穂・八州・スンプ・マグナ・島津・協和といったブランドの顕微鏡があったが、これらのメーカーは顕微鏡製作をやめたり他のメーカーに吸収されたりしてしまった。現在では、汎用の研究用顕微鏡メーカーはオリンパスとニコンに限られている。輸入されている外国製品は上記のツァイス社の他にライツ社があり、国内で用いられている研究用の汎用顕微鏡は、これらの会社の製品が中心である。上記の4社以外では国内ではユニオンとミツトヨが工業用の特長ある製品を提供している。また、反射光学系のみで構成された対物レンズを供給している国外メーカーもあり、赤外領域での分光測定には欠かせないものである。


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